人気ブログランキング | 話題のタグを見る

学座・とうごまの葉の下


キリスト教主義教育運動
by gakuza1994
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

祖国の歴史を直視して(1):村岡崇光

祖国の歴史を直視して:
日木人キリスト者学徒の旅
村岡崇光
2005:10:11
TrinityTheo10gica1Co11ege,Singapore

過去四〇年あまりにわたって世界各地を廻って来ましたが、この時期は、私にとって学びの時でありました。しかし、単に聖書語学者としてではありませんでした。自分は、学者である前に一人の人間である、というのが私の信念であります。
こちらに参りましたのは、ある特定の科目を五週間教授するためでありますが、私自身いろいろなことを教えられております。ただ、ギリシャ語、ヘブライ語に限りません。 
たとえば、先週金曜日、当神学校創立五七周年記念礼拝が礼拝堂でありましたとき、陳(タン)先生の隣に掛けておりましたが、正面の聖餐式用の細長い机、それを支えている煉瓦、その傍らに立っている木製の質素な十字架が日本人たる私に何を意味するかを教わりました。
定年退職したいまになって、やっとアジア諸国、その民族、歴史、文化を少し学ぶようになったという自分がいささか情けなくなります。 
何年か前のことですが、韓国人の男性が本国の会杜から派遣されて、家族連れで福岡に数年間駐在しました。息子のチョン君は日本の小学校に通っていましたが、ある日、担任の先生が、今年の運動会は国際色豊かにやる、明日は校庭にはいろんな国の旗が翻っているぞ、と生徒達に言いました。すると、チョン君がすぐさま手を挙げて、「旗ある?」と尋ねたそうです。先生は、すかさず「もちろんさ、チョン」と自信たっぷりに答えたのですが、万が一と思って、あとで学校の倉庫に行ってみました。アメリカ、イギリス、ロシアなどたくさんの旗があったのですが、韓国の国旗は一本もなかったのです。先生は唖然としました。 
地理的には、韓国は日本に一番近い国です。福岡空港から韓国南の港湾都市釜山までは半時間そこそこです。先生は生徒の父兄に呼び掛けて勉強会をやることにし、韓国の歴史や、日韓関係について学びました。
過去においてもそうでしたが、これは現在もなお、平均的な日本人の姿勢としては典型的なものです。過去百五十年程の日本の歴史の原動力となって来たものは、欧米に追いつけ、追いこせでした。ことに、科学、技術面においてです。
しかし、同様のことは文化的な面についても言えます。英独仏語に比較すると、韓国語や現代語としての中国語を学べる大学、短大は限られています。 平均的な日本人は欧米人に対しては劣等感に脳み、アジアの民族に対しては優越感、否、軽蔑の念を抱いています。
前世紀の日本のアジア諸国に対する行動の根本的な原因の一つはここにある、と私は思います。
日本がその一番隣国に対していかに多くを負っているかを思う時、これは驚くべきことであります。日本の二大宗教の一つである仏教は六世紀に韓国を経由して日本にもたらされました。また、その時までの日本人は文盲率一〇〇%、それが中国の漢字に学び、これを日本語の特色に適応させて仮名文字を編み出し、明治維新までは公の文書はおおかた漢文で書かれ、教養ある日本人は漢文の古典に親しんでいました。
私は、高校のあった町に英語の聖書研究会をしておられた敬度な米国人バプテスト派の宣教師の祈りによってキリスト教信仰に入り、大学一年の時、この宣教師から洗礼を受けました。
一九六四年にイスラエル政府の奨学生として、エルサレムのヘブライ大学に入学しましたが、それより何年か前にキリスト教に入信していた許嫁も一年あとに合流しました。その時点では、何年かしたら、鹿児島の湖で受けたバプテスト派の本物の洗礼とは別な形の洗礼を受ける、言ってみれば再浸礼派(アナバプテスト)に宗旨がえするることになろうとは、私達のいずれも思ってもみませんでした。
エルサレムでの洗礼がどういう形のものであったかは、今日は申し上げません。私どものヴィア・ドロローサの次の時点に進みましょう。
エルサレムで博土号を戴いてほどなくして、幸いにも英国のマンチェスター大学にセム語学の教師として奉職することとなりました。英国滞在の一〇年間、過去の二度の世界大戦の英人戦死者を追悼する、十一月の第二日曜には、BBCは年々歳々、「戦場に架ける橋」という有名な(あるいは悪名高い、と言うべきか)映画を放映しました。
昭和天皇が訪英された時の芳しくない場面もテレビで見ました。その後、メルボルンに転勤になりましたが、昭和天皇が御隠れになった時は、だれがオーストラリアを代表して葬儀に出席すべきかでひともめしました。誰も出席したくなかったのです。しかし、私達の辛い再教育はこれで終わったのではなかったのです。
一九九一年の夏ライデン大学のヘブライ語教授として就任して来た私は、なにやらただごとならぬ様子に気がつきました。その直前に訪蘭した、時の海部首相がハーグの東印度記念碑の前に献げた花束がその夜のうちに近くの池に放り込まれるという事件が発生していたのでした。   
早速大学の日本語学科の図書館に足を運んで過去数週間の日本の新聞をめくってみたのですが、二大新聞のいずれもこのことには触れていないのには苛立ちを覚えました。 総理大臣の公式の外遊となれば新聞記者が雲霞のように随行することは周知のことです。
家族をひき連れて渡り歩いたこの三つの国にはいずれも太平洋戦争中日本軍の手によって受けたひどい仕打ちをいまなお忘れられないでいる人達がいたのです。彼等は日本に戦争で勝ったのですから、不満、鬱憤は一層つのったわけです。 
私たちはこの国にしばらくは腰を落ち着けるつもりで来ましたから、家内と私はこれではいけないと思い、この問題について読みあさり、考えました。
また私たちが購読しているNRC  Hande1sb1adは、鵜の目鷹の目で関連記事を探しました。一九九六年の二月に同紙にこの有力紙にしてはいささかいただきかねると思える一頁大の記事が、日本海に浮かぶ竹島をめぐっての日韓の紛争にこと寄せて「日本に戦争を仕掛けたら痛快だのに」という題でのりました。 
私が編集部に出し、のちに同紙に掲載された抗議文がきっかけとなって、その時は未知のオランダ人の女性と知り合い、太平洋戦争中、日本軍がインドネシア各地に設けた民間人抑留所で数年間を過ごした時の辛い記億と長年にわたる葛藤を経られたこの方を通じて、さらに多くの同じような境遇にあるオランダ人の知己を得ました。
その一人は、私のライデン大学の同僚で、私とヘブライ語教授職を争った人でした。なかには、辛い内的葛藤に打勝った方々もありましたが、他方いまだに胸中にむしゃくしゃする気持ちをオランダ人らしい率直さで語って下さる方々もありました。二〇〇〇年に、家内と、日蘭の知人達と共に日蘭対話の会を計画し、インドネシア帰りの六〇人ばかりのオランダ人、その家族や友人、オランダ在住の日本人二〇人程を招待し、我々の共有する歴史、ことに太平洋戦争とその後をめぐる歴史に取り組むことにしました。  来月第九回の集会が開催されます。
泰緬鉄道敷設工事のとき、またインドネシアで起こったことを私達は知りませんでした。日本の学校ではそういうことは教わりませんでした。もっとも、原爆のこと、戦争末期の都市への無差別爆撃のことは教わりました。
さきほどアメリカの映画に言及しましたが、映画にはその性質上限界があります。具体的な事実や数字に乏しいのです。皆さんの中の大多数の方は戦後世代ですから、ここからさして遠くない所で起こったのですが、御存知ないかも知れません。当時の国際的な取り決めに反して、日本軍は、主として英軍および英連邦国軍の捕虜六万一八〇〇人あまりを泰緬鉄道の建設にあたらせたのです。おそろしくお粗末な食料事情、不十分な医療品のため、また工事の現場監督者達による度重なる暴力がもとで、このうち一万二三〇〇人程が死亡しました。ひどいところでは、枕木一本に死者一人が出たと言われています。
今年のはじめ、ごく最近できたというこの悪名高い鉄道についての記録映画をオランダのテレビで見ました。土木技術の観点からして驚異的な工事ではないか、とひどく感銘を受けていた若いインド人技師が現場の視察に出かけたのです。ビルマ、タイの密林を縫って四一五キロもある鉄道を、肉体的にも疲弊し切った、やる気のさらにない人間を使って、お粗末な機具で、一年以下で完成したというのにすっかり感心していたのでした。しかし、現地の案内人につれられて全行程を辿って行くうちに、この工事の非人間性、残虐さ、野蛮さにうちのめされたのです。いたるところに頭蓋骨や白骨がごろごろしていました。  
あたりを見回しても、墓碑ひとつ建っているわけでなし、ささやかな石塚すら見当たりませんでした。これは、前述の一万人以上の英国人、豪州人、ニュージー'ランド兵の遺骸であるはずはありませんでした。彼らの名前その他は分かっており、みんなちゃんとした埋葬式をしてもらっています。クワイ川にかかる橋のたもとに近年、生存者達の手で不幸な同僚たちを遺悼して建てられた記念碑にはアングロサクゾン系と思われない名前は刻まれていません。
この若い技師は、このときはじめて、周辺のアジア諸国から同胞のインド人多数を含む二〇万程の労務者がだまされて、あるいは強制的に連行されてこの工事に当たらされたことを知ったのでした。日本側の資料によれば、このうち四万二〇〇〇人程、英国側の資料では七万四〇〇〇人程が死亡したと推定されています。記録映画は、インド人技師が帰国する汽車の車中で、頭を深く垂れ、身を震わせている姿をもって終わっていました。
この記録映画を観る何年か前から、私達が真剣に考えなければならないことが、日本の近代史にはほかにもあることに気付きはじめていました。それは、大平洋に浮かぶいくつかの島をも含めてアジア諾国と日本との関係でした。
それは、一九四一年の太平洋戦争勃発をもって始まるのではありません。また、その後、日本軍によって侵略、占領された国や島に限りません。
日中戦争は私が生まれる一年前の一九三七年に始まっています。一九一〇年には朝鮮半島全域が日本に併合されて植民地となりました。台湾はもっと前に日本の植民地になっています。
新しい植民地宗主国あるいは占領軍と協力することの利をいち早く見抜いたごく一握りの人々を別とすれば、日本の勢力圏に組み込まれた国あるいは島の住民の大多数は、身体的、物質的にいろいろな辛酸を舐めさせられ、人間としての尊厳を剥奪され、貶められました。宗主国がどこの国であろうと、思い遺りある植民政策を云々することは自己欺瞞でしかありません。二〇世紀の前半にこの地域に日本が与えた被害は軍によるものだけではありません。
もちろん、植民地へ出かけて行った日本人の中には善意の、親切な、礼儀正しい日本人もいたでしょう。日本兵の中にすら、情のある、尊敬に値するような兵隊もいたことでしょう。
しかし、彼らとても、帝国主義的、軍国主義的植民地政策、領土拡大の当時の国策の道具、その歯車の一つであったことは否めません。生命、財産の恣意的破壊、搾取、心身両面に対する暴力が夥しい記録として残っています。破壊された建築物や自然、文書、写真、また口承の歴史として。
残念ながら、ごく少数の例外をのぞいて、当時の日本のキリスト者も潔白を主張することは出来ません。
家内と二人で今回のシンガポール行きの準傭をしている時、私はヘブライ語聖書や七十人訳の他に、シンガポールとその周辺国の日本軍による三年半に及ぶ占領に関する本や論文をいくつか読みました。そのひとつは許雲樵・蔡史君(編)、田中宏・福永平和(訳)「華人虐殺事件の証明:日本軍占領下のシンガボール」(青木書店、1986年)という中国語からの部分訳でした。
内容が余りにもきびしくて、読みながら何度もぺージを閉じました。中国本土において日本軍が決定的な勝利を得られず苦戦を続けたことが、シンガポール在の何千人あるいは何万人ともいわれる犠牲者をも含む在外華僑に対する日本軍による無数の残虐行為をもたらしたことは広く知られています。
昭和三〇年生まれの戦後世代の歴史家、林博史「裁かれた戦争犯罪:イギリスの対日戦犯裁判」(岩波書店、1998)も読みましたが、著書は戦後、英国並びにオーストラリアによって東南アジアで行われた戦犯裁判に関する文書、資料を渉猟し、また現地で多数の生存者や証人にも会って証言を収集しました。マレーシアのペラク州のイボで開かれた裁判で取り上げられた一件だけにここでは触れたいと思います。 
ヨーロッパ人と現地人の間に生まれた合の子の女性で、夫と共に医者を開業していて、抗日ゲリラの負傷者の治療に手を貸していたとの嫌疑で憲兵に逮捕された人に関係するものでした。彼女が拘留中どのような凄まじい、何日にも及ぶ拷問を受けたかはあまりにもむごたらしいので、ここで詳細を述べることは差し控えます。
彼女の口から情報が吐かせられないと分かるや、わずか七歳の娘を連れて来て、三メートル程の木のてっぺんから吊り下げ、その下で火を焚き、母親はそのそばにもう一本の杭に縛り付けて繰り返し笞を加えられました。それでも娘は、「私は大丈夫よ、お母さん。私のこと心配しないで」と声を大にして励ましたのでした。母親は、戦後英国で受けた治療も甲斐なく、拷問によって受けた傷から敗血症となり、一九四九年に死亡しました。娘は英総督からその勇気をたたえる手紙を送られたということです
。九一九人の証人に関する三〇四件が東南アジアにおける英国による戦犯裁判の対象となったそうですが、これが、実際に実行された戦犯行為のほんの氷山の一角に過ぎないことは歴史家の間では広く認められています。いろいろな理由から起訴されなかったのです。
このような自国の歴史をつきつけられて、日本人として、また日本人キリスト者として私達はどうこれに対応していったらよいのだろう、というのが私達の問題でした。

※ 祖国の歴史を直視して:(日木人キリスト者学徒の旅)を,許可なく複写利用しないで下さい。
※ ご利用を希望される方は,「学座・とうごまの葉の下」または,村岡崇光氏までご一報下さい。


by gakuza1994 | 2007-10-01 19:44 | 特集1
<< 集会のお知らせ リンク >>