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学座・とうごまの葉の下


キリスト教主義教育運動
by gakuza1994
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学座通信巻頭言

学座通信巻頭言
「聴く力をやしなう教育」(通信11号)
《聴くことのできない人々》
人の話しを落ち着いて聴くことができない子ども達が増えています。興味がないとか、難しいとか、疲れていることなども原因ででしょうが、そもそも人の話しを聞くこと自体ができなくなっている、そのような子ども達が確実に増えているとしか思えません。
学習障害という病理的な理由からでなく、ごく一般に人が話すのを集中して聞けないという事態です。しかし目を転じると、これは子どもに限ったことではなく、若者たちや大人にさえも蔓延しつつあるように思います。小学校で子どもたちに絵本の読み聞かせをしたり、各地で幼児から大人たちにまで読み聞かせや朗読、さらにいろいろなお話しをさせていただいていますが、集中して聞くことができない大人の方々にも出会うことがあります。私の話しが難しいとか、興味が持てないといった理由もあるかもしれませんが、どうもそれだけが理由ではない、と思えてくるのです。 

《聴くことが軽んじられた生活》
 その理由は、人の話しにゆっくりと耳を傾けるということが日常生活で軽んじられているからではないでしょうか。生活の基盤である家庭で、親が子の、そして子が親の話しに耳を傾けることが激減しています。彼らの話しに割って入るテレビやゲーム、明らかにこれらのものが、目の前にいる人が語りかけることをじっくりと聴くことを妨げているのです。
 多忙。私たちがよく吟味することなく周りの勢いに押し流され、実は不要なものさえも生活に取り入れることで、親も子も多忙の中に埋もれて、最も大切なお互いが語りかけることに耳を傾けることをうっちゃり、お互いの心が亡くなる、これこそが多忙なのです。 
《聴くことで人は生き方を学ぶ》
 人は胎内にいる時から始まって出産の直後からすべて親が語りかけることばで、生き方のほとんどを学習します。何が危険なのか、何が大切なのか、生きる基本を、親が語りかけることばで学んでいるわけです。聞くことで学ぶ内容は、成長するに従い、単純なことからより複雑な事柄へと変化していくのですが、その内容を理解できるかどうかは、次第に聴く力にかかってくると言わざるを得ません。人として生きる上で大切なことは、年令によって変わるものではありませんが、歳とともに聴く力が求められてきます。ですから幼い頃から親が語りかけることばをしっかり聴く訓練が必要です。

《聴く力をやしなう躾けと教育》
 生来、人は聴く力が与えられています。けれども人の話しをより集中して聴く能力は、親はもちろん、子を取り巻く大人が養い育てるものです。とりわけ幼少期に子どもと共に最も多く時間を過ごす親が果たす役割は計り知れません。 
親が躾ける上で何よりも基本的課題は、人生の土台を築く幼少期に人の話しをしっかり聴く力を子どもに身につけさせることです。ルールを守ること、隣人の必要に応えることなど、聴くことなしに人は人間として生きられません。
そして聴く力は、親の語りかけ、とりわけ絵本の読み聞かせや朗読のような、幼子や子どもたちにとって楽しいお話しを聞くことから始まります。興味を引くお話しを聞くことがやがて忍耐強く聴く力を育んでいくに違いありません。
しかしすべては、まず大人である親が、子の鑑として、子どもが親に語りかけることばにじっくり耳を傾けることから始まるのです。


「もう一つの戦争罪責を負う」(通信12号)
《靖国神社公式参拝の意味》
 戦後六〇年を迎えてなお我が国の首相が「靖国神社の参拝を適切に判断する」と言い続け、内閣総理大臣つまり日本国を代表する立場で靖国神社を公式参拝することにこだわるのはなぜでしょうか。
首相の側に、中国や韓国を始めとするアジアの国々になんと非難されようとも全く動じない理由が存在することは明らかです。
 そもそも靖国神社に祀られている人は、明治維新以降、兵士またそれに準ずる立場で戦地で国のために殉じた人々です。その由縁は日本の歴史に脈々と流れる、万世一系の現人神である天皇が永遠に君臨する万邦無比なる神の国とする国家観(皇国史観)にあります。天皇のために戦い勝利した者こそが天皇の信任を受けて政治を執り行なうことを許されるという国家観に基づき、天皇のために戦死した者を天皇自らが顕彰するという国家による慰霊の施設です。
 戦後、憲法は信教の自由を保障し、政教分離を定め、靖国神社も一宗教法人となって国家との関係を断ち、国民が靖国神社を参拝する義務はなくなりました。加えて「国民の代表者が公式に参拝することは違憲」とする司法判例が出されてきたにもかかわらず、なお首相が公式参拝を断じて譲らないのには明確な理由があるのです。
 戦後になると国民主権を土台とする日本国憲法によって、天皇は、主権の存する日本国民の総意に基く地位すなわち日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると定められた(日本国憲法第1条)ので、もはや国民の代表ではなくなりました。日本国憲法下では、主権を有する国民の代表は、その国民が選挙によって選出した国会議員が指名する内閣総理大臣です。
 戦後に憲法が変わったことで、天皇のために戦死した皇軍の兵士を祀る靖国神社に天皇が国を代表して参拝することはできなくなりました。内閣総理大臣が私人としてではなく、公人としてすなわち国民を代表する立場で参拝することにより、天皇に代わって皇国のために戦死した兵士たちを軍神として栄誉を称賛するのです。
 従って天皇を国家の元首とする大日本帝国憲法下の国家と、国民主権・平和主義・基本的人権の尊重を柱とする日本国憲法に基づく国家との断絶、換言すれば戦前と戦後の不連続を、たくみに連続させるものが首相の公式参拝にほかなりません。 
《靖国神社に祀られる人々》
 靖国神社は約一四〇年の歴史を有し、起源は、一八六九(明治二)年の東京招魂社の創建にまで遡ります。その東京招魂社が一八七九年(明治十二)年六月四日に靖国神社と改称され、別格官弊社となります。東京招魂社の建設は、軍務省(のち兵部省をへて陸軍省・海軍省)によって行なわれましたが、靖国神社と改称されて後、内務省・陸軍省・海軍省の管理下に入りました。一八八七(明治二〇)年に神官制度は神宮を除き神職(官吏待遇)制度に改正され、靖国神社に関しては、内務省の神官任命権が、陸・海軍省の神官任命権に改められ、この時点で完全に靖国神社は内務省の手を離れ陸・海軍省の管轄となったわけです。
 靖国神社は、別格官弊社という社格の点で国家神道の体系のなかで重要な位置を占めています。  
たとえば一八七二年に最初の別格官弊社となった「湊川神社」は、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒し天皇中心の政治を復活させた「建武の新政」実現に尽力した楠木正成が「祭神」として祀られていますが、靖国神社は、このような「忠臣」を祀る神社と同格でありながら、実際には他の多くの官弊社の上に卓越し、実質的には皇祖神を祀る神宮につぐ地位を得ていました。
 靖国神社は数多い日本の神社の中できわめて特殊な神社です。
 何故ならば靖国神社は、天皇・皇族を除くごく一般の国民が国家により祀られた唯一の神社だからです。
(台湾の植民地化のおり病死した北白川宮能久親王と日中戦争中に戦死した北白川宮永久親王の二人は戦後、靖国神社に祀られました)
各地に存在する神社には明治時代以前に活躍した歴史的な有名人が「祭神」となっている場合がありますが、社会的には名も知られていない国民が「神」として祀られているような神社は、靖国神社以外に存在していません。
日本国民が直接に国家の手によって祀られる唯一の場、それが靖国神社です。そして靖国神社の「祭神」となる条件は、ただ一つ「皇軍」の兵士として戦死すること以外にありませんでした。
靖国神社の「祭神」すなわち祀られた人々が誰であるかを考える上で最も象徴的なことは、東京招魂社の創建から今日まで靖国神社に「天皇の軍隊」に敵対する死者はだれ一人として祀られたことはないということです。
 誰が祀られてきたかということよりも誰が祀られてこなかったかが、靖国神社の性格と存在意義を端的に物語っています。
 一八六九年六月の第一回合祀で東京招魂社に祀られたのは明治政府軍(官軍)の三五八八人であり、同じ戊辰戦争で死んだ旧幕府軍(賊軍)および反政府軍は祀られてはいません。同年の七月に兵部省が東京招魂社の例大祭を、戊辰戦争の伏見戦争記念日(一月三日)、上野戦争記念日(五月十五日)、函館降伏日(五月十八日)、会津藩降伏日(九月二日)の四回と定めています。明治新政府が天皇のいる側すなわち「官軍」に敵対して戦死した「朝敵・賊軍」の戦死者は、日本人であっても排除して祀らないという、靖国神社合祀の方針が見事に凝縮しています。要するに「天皇の軍隊」の戦死者のみを祀ってきたわけで、「祭神」は、靖国神社が発表する「戦役事変別合祀祭神数」(二〇〇四年一〇月十七日現在)によれば次のように大別できます。その「祭神」合計数は、二、四六六、五三二柱です。
①国内戦である戊辰戦争と西南戦争の政府軍の戦死者
②日清戦争に始まる中国本土における侵略戦争の戦死者
③日露戦争の戦死者
④第一次世界大戦の戦死者
⑤台湾征討を始め、台湾・朝鮮・中国における植民地獲得と現地の抵抗運動弾圧のための日本軍人の戦死者
⑥大東亜戦争(太平洋戦争)の戦死者 
❶これらの中には台湾出身の合祀者と朝鮮出身の合祀者(約五万人)が含まれていますが、東京大空襲を始めとする空襲による一般戦死者、沖縄戦において軍人・軍属よりも圧倒的に多かった民間戦死者(民間人でも軍要請による軍務に従事中に戦死した準軍属は合祀対象となった)、広島・長崎における被爆死者など、数十万に及ぶ民間人の戦死者は靖国神社の「祭神」としては祀られていません。
❷当然ですが、台湾、朝鮮半島、中国大陸、ハワイ真珠湾、東アジア、また沖縄で「天皇の軍隊(日本軍)」と戦って戦死した外国人の兵士、広島・長崎で連合軍捕虜として被爆死した外国人兵士は勿論のこと、日本軍の侵略戦争や反日抵抗運動で死亡した民間人は全く合祀の対象から除かれています。
❶と❷の合祀の方針から以下のことが浮かび上がってきます。
 日本人であれ外国人(台湾・朝鮮出身者)であれ、「天皇の軍隊」の軍人として天皇のために戦った死者が「祭神」として祀られますが、「天皇の軍隊」に敵対した戦死者は、外国人であれ日本人(戊辰戦争や西南戦争の「賊軍」)であれ「祭神」として祀られません。
 台湾や朝鮮で植民地支配の侵略戦争で加害者として戦死した日本人と、その日本人による植民地支配の被害者であった台湾人や朝鮮人が共に「祭神」つまり「護国の神」として祀られてきたのが靖国神社なのです。何故なら日本人も台湾人・朝鮮人も「八紘一宇」の教えの下、大東亜共栄圏建設のために共に戦った「天皇の軍隊」の戦死者であったからです。
これらのことから次のことが明らかになってきます。
大元帥すなわち帝国陸海軍最高司令官であった天皇を輔弼(ほひつ)する義務を怠り、侵略戦争を指導した「平和に対する罪」ゆえに極東国際軍事裁判で有罪判決を受けた、東条英機元首相らをはじめとする十四名の「A級戦犯」が一九七八年一〇月に靖国神社の「祭神」として合祀されたのも、ほかでもない彼らがまぎれもなく「天皇の軍隊」の最高指導者であったからです。

 一九八五年(戦後四〇周年)の八月十五日、「戦後政治の総決算」を唱える中曽根康弘首相を始めとする閣僚が戦後初めて靖国神社を公式参拝した時に、「A級戦犯」が祀られているとの理由で中国から激しい抗議を受けたので、中曽根内閣は、「A級戦犯」を靖国神社から分祀することを企てました。
 中国や韓国が問題としたのは、宗教法人の靖国神社が「A級戦犯」を祀ったこと(一九七八年)が判明したからではなく、日本国民を代表する首相が、「戦後政治の総決算」を唱え「A級戦犯」の合祀が明らかとなった靖国神社に公人として参拝したからでした。
しかし中曽根内閣の努力も空しく、靖国神社宮司の「二五〇万柱(日本人も台湾人・朝鮮人も含む/筆者注)の霊が一つの同じ座ぶとんに座っている」という、靖国神社と他の神社の異質性を説く言葉や、「A級戦犯」分祀を説いた「A級戦犯」の遺族に対し同じく「A級戦犯」の遺族のひとりが語った「合祀の取り下げは、東京裁判という戦勝国の一方的な断罪を受け入れることになる。それでは、日本の国と家族のことを思って一途に散っていった二百四十六万余の英霊に申し訳ない」などの言葉に代表されるように、靖国神社と遺族の強い反発によって、中曽根内閣の「A級戦犯」分祀の企ては失敗に終わりました。
我国唯一の国定戦跡公園内にある「平和の礎(いしじ)」には沖縄戦での犠牲者を国籍に関係なく、記銘の対象としています。つまり日本軍の軍人、地元沖縄の防衛隊員・非戦闘員である一般市民さらには皇軍として戦い戦死した朝鮮や韓国の兵士また女性たち(彼らの場合は創氏改名の日本名でなく元の韓国名に戻す作業も含む)、台湾から来て戦死した人々、アメリカやイギリスなど連合国軍の兵士で戦死した人々の名前がみな刻まれています。
 「平和の礎」が敵味方また国籍に全く関係なく戦死者名を記銘したのは、この施設が敵味方に全く関係なく、戦争の全ての犠牲者への追悼の場であり、戦争そのものを否定し、「反戦」・「非戦」を志し、平和を誓い祈念する場とするためだったからに違いありません。
 太平洋戦争において日本で唯一地上戦を経験し、友軍と呼んで信頼していた日本(天皇軍の隊)に捨てられ殺害された者を始めとして、軍人以上に民間人が戦死した沖縄だからこそ願う、真に「平和」を築くための慰霊施設と言えます。
 戦争を肯定し、国家すなわち大元帥であった天皇が、その国民を「天皇の軍隊」として敵兵を殺すために戦地へ送り出し、戦死者を祀ることによって戦争を遂行することを目的とした靖国神社とは、その目的において全く異なっているのが「平和の礎」です。
《靖国神社合祀が果す役割》
 靖国神社に祀られる「祭神」が誰であるかを見ることで、合祀の基準が明らかになりました。その基準が、自ずから靖国神社合祀が果す役割と意味を確定します。
 国内戦を大きく上回る戦死者を出した日清戦争の直後(一八八五年十一月十四日)、福沢諭吉が主宰する「時事新報」は、その論説で「戦死者の大祭典を挙行す可し」と題し国家的儀式の開催を以下のように力説しました。

「何者に依頼して国を衛る可きか。矢張り夫の勇往無前、死を視る帰るが如き精神に依らざるを可らざることなれば、益々此精神を養ふこそ護国の要務にして、之を養ふには及ぶ限りの栄光を戦死者並に其遺族に与へて、以て戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざるを可らず」
 皇軍兵士として戦地に赴き戦死した家族を失って悲しみ沈む遺族と戦死者を放っておいたのでは、次の戦争に国家(天皇)のために戦地に愛する家族を送り出すことは難しい、まして命を捨ててまで闘う兵士の精神を培うことはあり得ないだろうから、そのためには戦死者と遺族とに最高の国家的な栄誉を与えなければならない、と主張しているのです。つまり戦死することが幸いであると戦死者と遺族とが共に感じられるように、最大の栄誉を与える方策として国家的な慰霊の祭壇を築くことを次のように提案しています。
 これこそ「天皇の軍隊」として戦死した「祭神」を祀る靖国神社合祀が果たす役割です。 
「各地方に於ては戦死者の招魂祭を営みたれども、以て足れりとす可からず。更に一歩を進めて地を帝国の中心なる東京に卜して此に祭壇を築き、全国戦死者の遺族を招待して臨場の栄を得さしめ、恐れ多きことながら大元帥陛下自から為らせ給ひ、文武百官を率ゐて場に臨ませられ、死者の勲功を賞し其英魂を慰するの勅語を下し賜はんこと、我輩の大に願ふ所なり。」
国家的な慰霊の祭壇の前で、祭主としてまた「天皇の軍隊」の大元帥として、天皇自らが戦死者の勲功をほめ称え英霊としての魂を顕彰する勅語を下すことが、戦死者と遺族に最高の栄誉を与えることになると主張するのです。
多くの矛盾に満ちつつしかも激しいアジア諸国から抗議を受けてもなお国また国民の代表として首相が靖国神社に公式参拝しようとする理由を以下のように説明することができるでしょう。
「A級戦犯」の合祀が新聞報道で公けとなった一九七九年以降、戦前には「天皇の軍隊」の大元帥であり靖国神社の祭主を務めてきた天皇の靖国公式参拝の中断を余儀なくされてきたからです。首相の公式参拝を切望する遺族の多くが最終目標とするのは、間違いなく天皇自身による公式参拝であって、それが困難だから、そのつなぎとして行なっているのが首相の靖国神社公式参拝であることに疑いの余地はありません。
それでは戦後約三〇年間祀られることなく一九七八年になって「A級戦犯」が靖国神社に合祀されたのにはどのような意味があるのでしょうか。
先述したように、一つは単純に彼らが「天皇の軍隊」の最高指導者であったからでしょう。しかしもっと深い別の意味があることを忘れてはなりません。
太平洋戦争終結のために日本は無条件降伏しました。その後に日本政府が連合国の四八カ国との間でサンフランシスコ平和条約を締結し調印したことは、極東国際軍事裁判における「天皇の軍隊」による戦争が「侵略戦争」だったという判決を受諾したことを意味しています。この受諾によって日本は、戦後国際的に独立国家として承認され、国際社会に復帰しました。
ゆえに極東国際軍事裁判で被告であった「A級戦犯」が合祀された靖国神社に首相が日本を代表する立場で公式参拝するとすれば、それは極東国際軍事裁判だけでなく、サンフランシスコ平和条約をも反故にしてしまい、国際社会が認めた独立国家としての条件を自ら放棄することを意味します。
にもかかわらず、靖国神社への公式参拝を願う人々が日本国民を代表して首相さらに戦争の時代に「天皇の軍隊」の最高司令官であり靖国神社の祭主であった天皇自らが靖国神社に公式参拝することを熱望するのは、国家と天皇のために戦地に赴き命をささげた戦争が侵略戦争であったとする戦勝国による判決を断じて拒みたいからに違いありません。
突き詰めれば、靖国神社に祀られている「英霊」たちはアジア諸国(大東亜共栄圏)加えて愛する日本の家族を、欧米列強から護り解放する正義の戦争を闘った、とする歴史観を日本国民に植つけたいからです。そればかりか、諸外国に対しては極東国際軍事裁判の判決を否定し、「A級戦犯」は侵略戦争ではなく正義の戦争を指導したのだ、と主張することに執着しているからにほかなりません。
それらは「自由主義史観」に立つ「新しい歴史教科書をつくる会」が編集した『新しい歴史教科書』(中学校)で明確に述べられています。この教科書の序章の書き出しで「歴史を学ぶのは、過去の事実について、過去の人がどう考えていたかを学ぶことなのである」と記述されていることから明らかなように、首相と天皇の靖国公式参拝を望む人たちは、戦争を指導した「A級戦犯」はもちろん天皇と国民のために戦った兵士に至るまで、あの時代(過去)に生きた全国民が太平洋戦争(大東亜戦争)が、欧米列強諸国の植民地化からアジア諸国と祖国の家族を解放するために戦った正義の戦争(聖戦)であると考えていた、という歴史観に固執していると言わざるを得ません。
言い換えれば、「A級戦犯」の合祀を取り止めたり分祀するならば、国家のために殉じた「A級戦犯」以外の軍人・軍属たちの死の意味さえも霧散してしまいます。靖国神社から「A級戦犯」を除いたならば、皇軍兵士として戦地に赴いた戦死者の勲功を讃え、戦死者と遺族に最大の栄誉を与え、更に先の戦死者に続いて皇軍兵士を戦地に送り出し、戦死することがいかに幸いであるかを感じさせる靖国神社ではなくなるのです。
「護国の神」また「英霊」を祀る靖国神社に「A級戦犯」は欠くべからざる「祭神」であり、「A級戦犯」抜きの靖国神社はもはや存在し得ないことは明々白々です。

by gakuza1994 | 2006-08-15 18:33 | 学座通信巻頭言1
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